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セキュリティ対策が続きにくい理由

アダム・スミスは、「見えざる手」といって、
人間の本能に、そして市場に任せれば経済はうまくいくといいました。
多少の国家による修正がはいるとしても、原則、自由主義経済は、
人間の欲望をエンジンに動いています。こんなにも複雑な各人の欲望がうまく調整されて経済社会が
成り立っています。

セキュリティに関することは、その逆で、本能の赴くまま、
ほっておけばなんとかなるという考えではうまくいかないものです。
人間の本能の中には、恐怖を回避したいという安全を求める欲求があります。
これは、セキュリティの原動力ですが、この安全を求める本能は、
経済が立脚する人の役に立ちたい、便利になりたい、儲けたい、
おいしいものたべたい、といった欲望に比べて、パワーが弱いです。

安全でいたいことは間違いないのですが、
今、安全なら、さらに安全になりたいと思いづらい。

ある臨界点を超えた危険さの中では人間は強く安全を求めますが、
今、臨界点以下の安全な状態であれば、
まったく、さらに安全を求めるということは起こりにくいです。
そして、このまま安全な状態が続くと思ってしまいがちです。

震災が起きたり、不幸なストーリーを聞くと、
そうはなりたくないとそのときは対策をしようとします。
心配で心配で夜眠れなかったりすることもあります。
明日にも直下型の大地震がくるかもしれないと。
でも、そんなことを考えながら生活するなんてことはできません。
今が臨界点以下の安全な状態であれば、
起きるかどうかわからないが将来の危険なこと、つまりリスクに対して、
起きてほしくないし、忘れていたいし、
もっといえば、時間がたてば忘れるようになっています。

ふと、地震の恐怖を感じたときに、
本当にその恐怖から逃れたいなら、
免振構造に家をつくりかえたり、
そもそも、地震の巣のような、日本を離れるという選択をすることもできます。
でも、多くの人はそんなことはできないし、しません。

首都直下型の大震災も起きるかもしれないが、
今安全だとそこにどこまでお金かけられるか、
時間をかけられるかということでもあります。
通常は、家具に突っ張り棒して、乾パンと水を備蓄して、
あとは忘れて、安全だと思い込みます。
明日、地震が来たら死ぬと考えていると健康に生きていられないから。
生きるための知恵でもある。

情報セキュリティも似たようなものです。

情報漏えいを起こすのではないだろうかとか、
他社が起こした漏えい事件や、ウイルス感染を見て、
自社もちゃんとやらなければと思うことは自然なことです。

だからといって、毎日、毎日情報セキュリティのことを考えてばかりいられません。
大事なことではあるのは間違いなく、
ここで、明日大地震がきたらどうするんですか、というのは
誰も否定はできないように、
明日にも漏えい事件が起きかねないというのはそのとおりですが、
恐怖に立脚して人生は生きられないです。

怖いなと思うことはほどほどにしておかないと健全にいきられない。

経営者がセキュリティのことを疎ましく考え、
あまりやりたくないなあと思ってしまうのは、
そのあたりのことを敏感に感じているからでしょう。

軽んじることはできない、
でも没頭するわけでもない、
ほどほどに、割り切って対処するという態度でしょう。

本当に忘れきってしまったら痛い目にあうので、
ときどきは思い起こして、夜も眠れない不安な気持ちを持ちながら、
そのときできる対策をほどほどにやって、
ひとまず安心して、本業に戻る、というような姿勢が必要です。

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